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*世界の断片を見せられた気がする『トゥモロー・ワールド』

実はこの作品の予告を観た時に映画館で観ようかなと思ったらあっという間に終わっていた。ようするに日本ではそれほど話題にもならず普通に公開が終了したということだ。
『カリブの海賊』や『死なない男4.0』などのようなブロックバスターではない。
だが心底映画館で観れなかった事を後悔した映画はこれと『殺人の追憶』だろうか。
『ゾディアック』がそうならないように早く行かないと、話しが逸れてしまった。

映画としては近未来ディストピアモノで舞台はイギリス。
といえばウオシャウスキー兄弟の『Vフォー・ヴェンデッタ』を思い出すが全然違う。あの映画のもっているものは原作の強烈なメッセージ性のみが雄弁に語りかけてきているので一見色々想起させられたがその実、『300』や『SIN・CITY』と同じ構造を持つグラフィックノヴェルの映像化に過ぎないということがよく解った。(もちろんそういう映像に酔わせてくれるボンクラ系も大好きだが)この映画はディストピアな世界で一人の主人公を追う映画だ。そして主観でありながらつねに客観視しているかのごとくな突き放した空気を纏った作品だった。

世界から赤ちゃんが生まれなくなって18年余、世界は荒れ、難民などの流入に頭を痛めた政府は隔離政策をとっている。
主人公のセス・ファロン(アイリッシュな名前だ!)はエネルギー省につとめる官僚だが元反体制活動家の過去をもっていた。そして分かれた元妻、ジュリアン(ジュリアン・ムーア)は反体制派グループ、『フィッシュ』のリーダーとなっていた。ある日突然何者かに拉致されたセス。セスを拉致したのは『フィッシュ』のメンバーで、それを指示したのはジュリアンだった。またセスの前に現れたのはそのコネをつかってある人物を無事に通行させたいので政府の通行証を融通して欲しいからだという。一度はその依頼を断るセスだが結局引き受けることに。だがその送り届ける少女には秘密があった。

まあ勘のいい人ならこれだけで話のアウトラインは解るだろう。だが物語はそんな観客の考えをあっさり打ち破りどんどん加速していく。最初の爆弾の長回しから中盤の牧歌的な逃避行そして突然の暴徒の襲撃。そしてクライマックス。

話がセスの主観で進むのに何故か客観的。この部分がこの映画の大きなポイントでそうでなければ暗いトーンのよくあるディストピアモノとして終わっていただろうと思う。
映像表現として殆どの映像作家はやられた!と思っているんじゃないだろうかとさえ思わせるカット、長回し。

あくまでも客観的な主観視点で進むため断片的にしかこの世界の事は解らない。そして何故主人公は一度はやめるといったのに結局、少女を送り届ける事を承諾したのかも。
いやそれはなんとなくだが解るのだが。まるで説明しない押井守のようだ(苦笑)
だが観たまま、ありのままを提示しているのだというのはオープニングの長回しからもあきらか。そういう作品なのだ。説明するのではないこの世界で起こっているのは今あなたが観たままなのだと。そうして徐々にこの世界に引き込まれていけばもう作品の虜になっている。
反対に何故?ばかりが先行すると状況が見えなくなる。そんな作品だと思う。いや李小龍師父はいい事をいった。『考えるな、感じるのだ。』





そして画面を支配しているモノトーンな感じもそれにうまくマッチしておりそれはイギリスを舞台にしていることも関係していると思う。これアメリカだとちょっとうまくいかないなという感じがする。
元から他民族だしそういう混沌があるからそういう少し澱んだ空気がうまく出てこない気がする。

中でもセス、ジュリアン、送り届けられる少女キーと支援者の女性に組織の男とクルマで目的地に向かうシーンはその普通さであっさりと撮られているがあまりにも凄い長回しである。どうやってカメラ回したんだとさえ。それを流れるようなシークエンスでカットを割りそうな部分もあえて流れを重視する。

この作品のクライマックスを観ていて思い出したのは『ブラックホーク・ダウン』である。最期のクライマックスシーンはイギリス(という設定)なのに『ブラックホーク・ダウン』のソマリアと酷似している。いや実際にはもっとバラックの多い町並みであったというから多分これは映画の中の市街戦で描かれる『戦場』を想起したのだろう。(実際に他の船倉映画で描写される市街戦さながらの風景がそこにあった)そして映画の表現力がCGやカメラの解像度の恩恵を受けてこの方弾が飛び交う戦場をそれに巻き込まれた無力な人間の視点から撮ったものはなかったように思うがこの作品ではそれを完全に創出してみせた。その6分強の市街戦シーンで主人公を執拗に追うカメラで完全に混沌と死が支配する戦場へ我々観客は放り込まれることになる。

まさかここまでとは思わなかったが極めて映画のセオリーに則っただが捻った、ツイストのような映画だとは思わなかった。これぞまさにロックンロール。

あとすこし言及したけど押井守っぽいなあと思った(『とどのつまり』なども思いついた)だが押井さんには難しいかなとも。というか押井さんはどっちかというと捻りがさらに念が入っていてブルースからジャズという感じ。インテリジェンス先行って感じだし、そういう意味ではイノセンスでジャズを持ってきた鈴木Pはなんだかんだといっても慧眼だよねとこれは余談。

それとロックンロールに関して言えばセスの友人で慈善活動をしていてある体験から心を閉ざした妻と共に隠棲しているジャスパーをマイケル・ケインが飄々と演じているが彼から色々語られる世界の有り様、これもまた断片だ。そしてジャスパーは混乱と恐怖の支配する世界に、ヒッピームーブメントからタイムスリップしたかのような人物でゼン(禅)ロックを大音響で響かせグラスをきめる。
どこかでジョン・レノンを思わせると書いてあったけど、(ウィキペディアの解説だったか?)だけどおいらには色んな人物(ビートニクの詩人たちなど)をミックスしているように感じた。多分レノンを想起するのはエンディングでレノンの曲がかかるからだろうと思う。
またこの曲も何かを指し示しているかのように掛かるがこれも結果断片として我々の心に残っていく。
そういったものが積み重なっていってこの世界を記憶する感覚。
それがこの映画の本質なのかもしれない。そして旅立つ先は明日(トゥモロー)

まさに断片化した世界を観る経験。そんな映画だった。

監督アルフォンソ・キュアロンも凄いがこの映像を撮ったカメラマンのエマニュエル・ルベツキの名前は覚えておこうと思う。

by tonbori-dr | 2007-07-12 23:15 | スルー映画祭り